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吉澤と斗満、そして決意
3月より都立高校受験TOMANの代表となりました、吉澤 学(よしざわ まなぶ)です。
塾長ブログ第1回は、僕自身の紹介も込めて「吉澤のこれまで」について語らせてください。
長文になりますが、お付き合いくださいませ。
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自由な立場で、子どもたちの成長に携わりたい。
これが自分の信念であり、これからも変わることのない、斗満学院に身を置く理由です。
元々は小学校の教員になりたくて教育系の大学に進みました。
小学校・中学校・高校すべての教員免許状を取得し、いざ採用試験へ。
1次試験の筆記は余裕で合格。ところが、2次試験ではあっさり不合格。
それもそのはず。
2次試験の個人面接で「大学でどんなことを研究したか」というありきたりな質問に対し、
「教育行政」のあり方について研究しました。
今でも「教育基本法」の改正については否定的な立場です。
特に旧基本法第10条の「教育は不当な支配に服することなく国民全体に対して直接に責任をもって行われるべきものである」という条文の一部が変更され、教育権の独立という思想が否定されてしまったことを自分は問題視しており・・・
・・・なんて得意満面に答えたわけです。
うーむ。
なんでわざわざ教育行政に携わっている目の前の方々に向かって、ご丁寧に喧嘩を売るような発言をしたんだ。
大丈夫か吉澤。気でもふれたか。
その上で教員をやりたいなどと言っても、「こんなやつ採用したら上に対してガンガン反抗してくるだろうから無理」と落とされるのは至極当然。
若気の至り、黒歴史でしかありません。
どうやら、いや、どう考えても教員に向いていない自分。
子どもたちの教育に携わりたいけれども、自分の意見や立場を弁えるなんて無理だと絶望したまま大学卒業。
教職浪人が決まってからというもの、途方に暮れつつも、特に就職活動をしてこなかった自分には明らかに自己分析が足りていないことに気づきました。
思えば、教員を目指したのは小学校5・6年生の時の担任の影響でした。
自分の能力について長所も短所もしっかり見抜いてくれ、その上で長所を伸ばしてくれたこと。
今の自信満々な吉澤はこの先生のおかげで生まれたと言っても過言ではありません。
けれども教員だけじゃない、他にも憧れた存在がいたような・・・。
高校受験の時に通った塾、今は廃校になった市進学院坂戸校、その時の講師の先生。
授業が誰よりもわかりやすくて、偏差値がメキメキ上がったような・・・。
そうか、塾の先生か。
新たな自分の可能性を信じて、塾への就職を決意。
大手塾は教員以上に組織的な支配が強そうで嫌だから、地域に密着した小規模の塾にしよう。
そうして出会ったのが斗満学院。
当時の斗満学院は富士見ヶ丘、桃井、西荻窪の3教室のみの展開で、そのうち桃井教室の教室長を募集していました。
塾長の馬渕に初めて会った時の感想は、
「初対面なのにやたらと距離の近い、ちょっと変わった色黒のおじさん」。
4月半ばの暖かいお昼過ぎでした。
「君は教員志望だったんだね。うちに就職したとしても、実はこっそり採用試験受けていて、受かったから辞めます、みたいなのは勘弁ね」
「教員採用試験の日に(試験を受けないように)終日馬渕と過ごすことを約束してくれるならば、ぜひ採用したい」
という世にも珍しい条件で採用され、西荻窪教室で研修を受け、結局採用試験の日は監禁されず、桃井教室に配属。
桃井では20代だったこともあり、生徒さんたち相手に体当たりの授業ばかりしていましたね。
こちらの言うことを聞いてくれない生徒さんとは、本気で口論になったこともありました。
ちょっと言い過ぎたかな、と反省する横で馬渕はまた違う生徒さんに対して顔を真っ赤にしながら怒っていました。
斗満の良さの一つである、生徒さんたちとの距離の近さを実感する日々でした。
若さゆえの失敗もありました。
3年目の受験では不合格者を8名出してしまい、各ご家庭にお詫び行脚した苦い記憶もあります。
もっと生徒さんの実力を分析しなければいけない、と心に誓った経験でした。
全力で走り切った桃井教室時代。
最初と最後の年の卒業生とは、先日も一緒に飲むくらいの強い繋がりを維持しています。
富士見ヶ丘教室にも後学のために週2で通いました。
桃井とは全く違う厳格な雰囲気に圧倒されつつも、室長の松本による「責任の所在をはっきりさせる」マネジメントに感銘を受けました。
今でも僕は松本のアプローチをベースに生徒対応をしています。
勤続5年目には「新教室を出してみないか」と馬渕に言われ、ゼロから教室立ち上げ経験も積むことができました。
初めて立ち上げた石神井台教室は非常に思い入れのある教室です。
口コミもないままに開校し、2年目に生徒さんが10数名しかいなかった時には、喉奥に口内炎ができるくらいのストレス下であったことを記憶しています。
それでも目の前の生徒さんをとことん大切にすることを貫き、結果3年目には多くの生徒さんに通っていただける活気のある教室になりました。
石神井台教室の5年目に久米川教室を立ち上げました。
久米川教室では石神井台教室の時以上に開校時から苦戦を強いられました。
初年度なんて結局、受験生1名でしたからね。
夏からスタートしたということもあって、生徒さんとの信頼関係はなかなか築けません。
緊張感というプレスも効きません。
宿題をやり忘れる、宿題を失くす、宿題の存在自体を覚えていない、前回の授業で教えたことは綺麗さっぱり忘れる、何度言っても記述問題は一切書く気がない・・・・。
それまでの石神井台教室や桃井教室では1つの学年で30名近くの生徒さんを指導し、一応そこそこのリーダーシップを発揮してきたつもりでしたが、この1名の生徒さんには完敗。
冷静に理詰めしても、時に激しく叱っても、何をしても暖簾(のれん)に腕押し。
どうやら僕は驕っていたようです。
一個人の性格や価値観を変えるなんて、実はそう簡単にできるものじゃないこと。
勤続10年にして思い知らされました。
その後様々なドラマを経て、なんとかその生徒さんは志望校に合格することができました。
苦しかった久米川教室の6年間、信頼してくださる家庭が少しずつ増えていくのを感じながら、
ようやく中学3年生が30名以上通ってくれるくらい勢いのある教室にすることができました。
2023年、西荻窪教室に舞い戻っての1年間、久しぶりに馬渕とともに働いた時間は新入社員に戻ったような懐かしいひと時でした。
馬渕は「生徒さんに対して絶対に怒らない」って宣言しながらいつもぷりぷり怒っていたのですが、流石としか言いようのない頭の回転の速さで、目の覚めるような授業をしていました。
入社以来、相当な経験を積んできたと自負していましたが、やはり馬渕の背中は大きく感じられました。
とはいえ、高ければ高い壁の方が、登った時に気持ちいいはず。
絶対にこの背中を越えてやる、改めてそう決心することができました。
振り返れば、TOMANに入ってから、あっという間の16年間。
馬渕は僕のやることを一度も否定せず、君の思うようにやったらいい、と常に後押ししてくれました。
生意気な若造でしかなかった自分に対して、その懐の広さには感謝してもしきれません。
そんな若造が、どうやら今年から代表としてTOMANを引っ張るらしいです。
馬渕ほど能力が高いわけでもないし、経営センスなんて足元にも及びません。
それでも、未熟な自分であれば、今後勉強しながら成長させていけばいい。
生徒さんたちに日々の努力を強いる以上、自分が努力できないわけがありませんから。
僕が入社した時代と違って、TOMANは現在8教室。多くの頼れる仲間たちがいます。
卒業生も就職してくれるくらい、マトモな会社になりました。
手前味噌ですが、こんな良い会社は他にないと思っています。
TOMANの講師は、他のどんな塾の講師よりも、自由な立場で子どもたちの成長に携わることが可能ですからね。
僕がこれまでそうしてきたように。
14年前、僕の結婚式に列席してくれた馬渕が、緊張のために汗びっしょりになりながら祝辞で述べてくれた言葉は、僕にとって生涯の宝物です。
「吉澤くん、僕は君に出会えて本当によかった。これからも、よろしくな。」
はい。僕も馬渕社長に出会えて本当によかったです。
これからは、お任せください。
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(TOMAN) 2024年3月 1日 16:54